第1回仏教講座を行いました
2017.06.15更新
6月12日(月)第1回仏教講座を行いました。ご講師として呉市登照寺住職 服部法紹先生に来ていただき、ご法話をいただきました。
今日は仏様のお話、仏教のお話をしたいと思います。
現代に生きる人間は、目で見えないものはあるのは知っているが、信じられないと思ってしまいがちです。それに対して2500年前インドにおられたお釈迦様は、逆の事を考えられていました。お釈迦様は、目で見えることは不確か、目で見えないものは確かに存在すると考えられていました。この目に見えないが確かに存在するものの分かりやすいものとして、一つ「願い」があります。5月31日94歳で私の祖父が亡くなりました。90歳までお寺で元気に働いていましたが、2年前認知症になり、最後には私の顔も忘れてしまっていました。その祖父が亡くなったので、部屋を先日整理しました。すると、本棚からカセットテープが1本出てきたのです。タイトルには「法紹君保育日記1」と書いてありました。そこで聞いてみると、祖父が62歳、私が2歳の頃の声が入っていました。祖父が「法紹君、今日は2歳と3ヵ月です、お寺の本堂でお勤めの練習をしています」そして2歳の私が正信偈をしている音声が入っていました。まだ2歳のため、言葉ははっきりしていませんが、音程やリズムは取れていました。そして祖父が「上手だった、ありがとう」と言って音声は終了しました。これが2歳8ヶ月、2歳10ヶ月と録音は続き、だんだん上手になっていく様子が残されていました。カセットを全て聞き、取り出したとき、裏面に言葉が書いてありました。そこには「健やかに成長して立派なお坊さんになって欲しい」と書かれていました。祖父は亡くなり、もう姿形はありませんが、この願いは今でも私を支え育てていってくれています。大阪に私に浄土真宗について教えていただいた先生がおられます。先生が「私たち人間は何も持たずにこの世に産まれてきた、生きているうちに色々なものを手にしているが、死ぬときは全て手放して死んでゆく」と言われました。この体であっても手放していかなければいけません。また「命についてはどうですか?」と聞かれました。「私たちは自分の命を自分の所有物だと思って生きている。しかし命は本当に自分の手の中にあるのだろうか?」と聞かれました。私たちはこうして生きていますが、自分の命のスタート地点を決めることはできません。あなたの意識のかかる所に命はありません。この命を保っている体の働きもあなたの意識にはかかっていません。命が終わることに関してもそうです、自分の命の終わり方は決めることはできません。始まりを決めることもできねば、終わりを決めることもできません。「死んだら終わり」という寂しいことを聞くことがありますが、そうではありません。仏様は命には続きがあると言われています、人は死んだらのその命は仏様になっていきます。祖父の命は願いは今でも私を支え成長させてくれています、これは仏様になったという事です。私のこの命も仏様になっていきます。人は皆経験したことのない死を終わりと決めていますが、続きがあるんです。仏様はこうして命の見方、生命観を教えてくださっています。